80年の民主化の春

第四共和国の崩壊:朴正熙(パク·チョンヒ)大統領の殺害(1979年10月26日)

1961年に4·19民主革命の熱望を踏みにじって登場した朴正熙(パク·チョンヒ)軍部政権は、維新憲法を公布(1972年)して一人永久独裁体制を企てた。朴正熙政権の暴力的な抑圧の中でも続けられた民主化運動は、1979年10月16日の「釜馬民主抗争」につながり、難関にぶつかった独裁政権は自ら崩壊した。10月26日に宮井洞安家(旧大統領官邸所属の家)の晩餐会場で、朴正熙大統領が金載圭(キム·ジェギュ)中央情報部長に射殺されたのである。この事件により、済州島以外の全国に非常戒厳令が宣布された。

粛軍クーデター:新軍部の登場 (1979年12月12日)

崔圭夏(チェ·ギュハ)権限代行と鄭昇和(チョン·スンファ)戒厳司令官は10月27日に合同捜査本部を設置し、全斗煥(チョン·ドゥファン)保安司令官を合同捜査本部長として任命した。全斗煥は、情報·保安·捜査などの業務を総括する強大な権限を持つようになったが、軍事力を握るために鄭昇和戒厳司令官を強制連行する軍事クーデターを起こし、盧泰愚(ノ·テウ)などのハナ会という軍部私組織の基盤軍権を握り、更には国家権力を奪い取るための計画を実行していった。これらは朴正熙(パク·チョンヒ)政権の庇護の下で成長した政治将校で、朴正熙の死後に登場した「新軍部」である。

1980年の春:民主化の熱望(1980年 3~5月)

国民のほとんどは、朴正熙(パク·チョンヒ)の死亡により独裁政権が幕を下ろし、民主化が実現されるであろうと希望を抱いていた。期待に満ちた人々は、1980年の初期を「ソウルの春」、「第四共和国が過ぎ民主化の春」が来たと思った。

- 大学の外に出た大学生ら: 大学生らの民主化運動は1979年11月頃の学生会の復活運動からスタートし、学園民主化闘争を経て戒厳の解除と粛軍の退陣を要求する政治闘争に発展した。 1980年3月のソウル大の総学生会の発足をスタートとして、4月には全国の主要大学に学生会が構成され、4月は実に学園民主化闘争の時期であった。5月になると大学生らは「戒厳令の解除」、「粛軍の退陣」、「政府の憲法改正の中断」、「労働3権の保障」など本格的な政治闘争を展開し、大学の外に進出し始めた。5月10日に全国の大学の代表らは、「非常戒厳の即時解除」と「全斗煥(チョン·ドゥファン)や申鉉碻(シン·ヒョンファク)などの粛軍の退陣」を要求する声明書を発表するに至る。

- 同床異夢の中の政治権 : 政治権は、崔圭夏(チェ·ギュハ)政府の下での改憲の主導権を巡り、金大中(キム·デジュン)、金泳三(キム・ヨンサム)、金鍾泌(キム・ジョンピル)が官僚集団に対抗し、競争していた。1980年2月に金大中が合法的な政治活動を始めると金泳三との競争が熾烈になり、野党である新民党が分裂の危機に直面し、共和党の金鍾泌は野党と新軍部の力比べを眺めるだけであった。政治権が力をひとつに結集できずにいる間、新軍部は全国の主要都市に軍を投入する計画を立てていた。

霧に包まれた政局:5月14日から15日にソウルに集まった全国27大学の学生代表らは、ソウル駅に集まった10万人に肉薄する学生らを導いて街頭デモを始め、地方の24大学の学生らが各地域で街頭デモを敢行し警察と衝突した。ソウル駅の広場に集まった学生らは座り込み、新軍部と崔圭夏(チェ·ギュハ)政府に対する大規模なシュプレヒコールを繰り広げながらも、市民らの積極的な反応がない状況での軍との衝突は賢明ではないと判断し、政治日程を観望しようと「ソウル駅回軍」を決定した。

しかし、光州では16日にも全南大と朝鮮大を中心として大学生らが道庁前の広場で朴寛賢(パク·グァンヒョン、全南大総学生会長)を中心として大衆集会を開き、夜間には平和の松明行進を繰り広げた。全南大の学生会もやはり戒厳の解除と政治権の日程を観望し、19日のデモを約束して休むことにした。